19日は父の命日でした。
11年前のあの日、私は人生で一番悲しい日をすごした。
ハッキリ覚えていないシーンもあるけれど、身近な人を初めて亡くした私は、
人には本当に最後があるなんて思えなくて、
最後の最後まで父は助かるものなのだと信じてやまなかった。
余命3ヶ月だと言われて、1年3ヶ月もったものの、
そのすさましい闘病生活は、父にとって地獄のような日々であったに違いない。
でも家族はあきらめるなんてできなかったし、「もしお父さんが死んでしまったら・・・」なんて話は1度もしなかった。
そして父も、そんなもしもの話を口にすることは一度もなかった。
でも今思うともっと話しておけばよかった。。。高校生という難しい年齢だった私は、父に「大丈夫?」の一言をなかなか言えなかった。
なんか病人扱いしてはいけない気がして、いろいろ考え過ぎてしまった。
とくに反抗期という時期がなかった私だが、この時期は私なりの難しい時期だったのかもしれない。
だから母に、冷たいって言われることもあったな~別に心配してないわけではなかったのにね。。。
私は、父の死後、、、、いやこの11年間、その事をずっと悔んでいる。
父はそんな私の気持ちをわかってくれていたのだろうか。闘病生活の後見つかった父の日記からは、その事は何も触れられていなかった。
だから余計、、もっと話して、もっと会いにいっていればよかった。
私はすごく泣き虫で、痩せた父の姿を見ると誰よりも一番泣いてしまう。
だからそれを見ると父の免疫が下がってしまうから、あまり病室を訪れることをしなかった。
父の最後の日、授業を受けていた私を先生が呼んだ。「お父さんが急変したようだから、すぐに東京の病院へ行って」と・・・
病院に到着したとき、父はすでにモルヒネで朦朧としていて、スポーツ万能で健康的な父の姿はそこにはなく、
言葉もなくただただ呆然と突っ立って泣いた。
父は幻覚が見えて、「手の上に鉄板が乗ってて熱いたらお願いおろして」と呂律の回らない言葉で言ってきた。
今にも崩れてしまいそうな母は、このまま父と逝ってしまうんじゃないかと思うほどだった。
そしてまだ小学生の妹。どこまでの事をわかっているのか分からない。
そして私を含めた3人はただただ泣いた。
モルヒネを打つ前、いつもより体調がよかった父が「もうダメかもしれないから、子供たちをよんで欲しい」と言ったらしい。
母は「功ちゃん、何言ってるの?^^」と言ったらしいが、私たちが到着したその夜急変した。。。
人は自分の最後がわかるのかもしれない。
やっと母と結婚できて、本当に仲がよくて幸せで、お互いが幸せすぎて怖いね^^って子供達の前でも堂々というほど仲だった。
なぜ神様は父と母を引き離したんだろう。
なぜ父じゃなきゃだめだったんだろう。
今お父さんが生きていたら、私たち家族はどうなっていたんだろうか。
考えだすとキリがないけれど、一つだけたしかなのは、私達家族の中で父は生き続けているということだ。
父は最後まで諦めずに戦ってくれた。本当にご苦労様でした。
そして私達を育ててくれてありがとう。
いつまでもいつもでも、この心が続いていくように。。。お墓には ”絆 ~たくさんの思い出をありがとう~”と彫った。
私はたぶん人一倍ママを守ろうとする気持ちが強い。
それはこの現実がなければ、今の私はいなかったと思う。
でも私は強くなった。父に変わって、母と一緒に妹を育ててる気持ちでいる。
お父さん、のんびり屋さんで、何一つ一人でできないから、大人になったら困るなぁ~って言ってた私は、こんなに大きくなって、強くなったよ。
お父さん、きちんと思ったこと、言える子になったよ。
お父さん、どんな時も夢を諦めず、まだまだ思い描く理想への階段を昇っている途中だけど、前を向いてるよ。
お父さん、今の私は本当に沢山の人に支えてもらってるんだよ。
お父さん、私はどんな事があっても歌い続けるよ。
そしてママとりえちゃんは、私が必ず守るよ^^
言いたいことは沢山あるけれど、人は涙が枯れることはない。
テレビを見て同じ境遇のドキュメンタリーを見て泣いたりしないが、私とママと妹でパパの話をした時は、
今でも声をだして泣く。
どうかママがこれから先、パパがいた頃の幸せと同じくらいの幸せを感じられる日が訪れますように。
そしてりえちゃんが、幸せな人生を送ることができますように。
私が最後お父さんの前で歌ったのは、闘病生活の途中で迎えた父の誕生日だった。
病室で声を殺して歌うハッピーバースデーに、家族4人で元気に遊んでた日々を思い出しまた涙した。
それが最後の歌。。。
もう一度私の歌を聴いて欲しかった。
長い年月を経て、やっと心の整理と共に出来上がったこの曲、、、、
どうか天国のお父さんまで届きますように。。。